海軍の遺構眠る舞鶴・蛇島 中世には山城も

まちと文化

海軍の遺構眠る舞鶴・蛇島 中世には山城も

 穏やかな舞鶴湾に浮かぶ小さな島の一つ、蛇島(じゃじま)。京都府舞鶴市佐波賀(さばか)の沖合700㍍に浮かぶ周囲約650㍍の無人島で、一世紀前、旧海軍が隠すようにトンネル状の燃料保管庫を建設し、終戦まで使用。今もその遺構が残っている。海軍の守りの要だった舞鶴鎮守府を構成する主要施設だったが、島内には中世に築かれた「山城」の跡もあり、約400年も前から湾内の防衛と海上交通の要所だった。
 地元の方も一部しか知らないであろうその歴史に迫った。

【戦国期】海上交通の要所「蛇島城」

【戦国期】海上交通の要所「蛇島城」
蛇島城図版=京都府中世城館跡調査報告書・丹後編より転載

 中世の時代、蛇島には山城が築かれた。海水の堀はないが、いわば水運を押さえる「海城」。「京都府中世城館跡調査報告書」(参考文献・舞鶴の山城)によると、島の南側には見張り台などを建てるため山の斜面を造成してつくった平坦地の曲輪(くるわ)が残り、三段の主郭部から成る「蛇島城」があった。
 
 島の西側には敵が攻め入るのを防いだり、コースを限定したりする竪堀(たてぼり、地面を細長く掘った構造のこと)の跡が残る。文献には「蛇島城からは湾内が一望でき、戦国時代には軍事的に重要な立地であったと考えられる」と記されている。

佐波賀地区の集落から望む蛇島

 島の名は大昔、佐波賀集落が夜な夜な海を渡ってきて悪さをする大蛇に悩まされ、対岸にある雲門寺の住職が大蛇を退治したという伝説に由来する。

 また、蛇島城を築城したとされる若狭の戦国武将、逸見駿河守に由来する言い伝えも。当初は「逸見島(へんみじま)」と呼ばれていたのが「へびじま」に変わり、蛇の字が当てられて「じゃじま」になった。
 
 こうした逸話が残り、戦国の世から若狭湾の海上交通を牛耳る要所であった蛇島。1901(明治34)年、寒村だった東舞鶴に海軍の鎮守府が設置されたことで変貌する。

【大正期】海軍がガソリン倉庫建造

【大正期】海軍がガソリン倉庫建造
舞鶴市提供

 当時、中舞鶴から東舞鶴にかけての海沿いの村々には多様な軍事施設が建設された。蛇島については1916(大正5)年に海軍が買い上げ、立ち入りが禁じられた。1922(大正11)年には島の東西を横切る4本のトンネル倉庫を建造。揮発性の高いガソリンを保管し、隔離するうってつけの場所だった。

100年前に建造されたとは思えないほど良好な状態で残るトンネル倉庫

 トンネルの延長は約65~70㍍で幅は3.6㍍、高さは3.5㍍。100年前に建造されたとは思えないほど良い状態で保存されている。舞鶴市観光振興課の神村和輝さんは「島自体の湿気が少なく、地下水の影響もほとんど見られないことが影響したのでは」とみる。

 トンネル上部のアーチ部はれんが造りで、壁はコンクリート造。内壁はモルタルを塗って仕上げてあり、ガソリンタンクを固定していたアーチ状のコンクリートが残るトンネルもある。一方で、仕上げの工事が中断されたのだろうか。れんががむき出しのトンネルもある。
 

トンネル入り口には土塁が築かれている

 朽ちてはいるが、鉄枠の扉が残るトンネルも。いずれも海上から見えないようにトンネル入り口に土塁が築いてあるが、坑門に凝った装飾が施してあるのも興味深い。

かつてクレーンがあった円形の基礎

 島には船が着く石積みの護岸や電動起重機(クレーン)の基礎などの遺構も良好な状態で残っており、当時の海軍のインフラ技術を伝えている。

【現代】国の「日本遺産」に 観光活用へ

【現代】国の「日本遺産」に 観光活用へ
公開ツアーに参加する見学者ら

 こうした遺構が2020年6月、軍港を支えた貴重なインフラ施設として文化庁の「日本遺産」に追加認定された。

 これを機に、今も立ち入りが禁じられている島を観光活用する機運が高まり、翌年には舞鶴市が所有者の国に働きかけて地元住民を対象にした見学会を実施。2022年秋には観光地としての可能性を探るため、初めて一般公開され、日の目をみることになった。

住民の暮らしも支える 佐波賀だいこんの採種も

住民の暮らしも支える 佐波賀だいこんの採種も
蛇島で種が育てられていた「佐波賀だいこん」

 蛇島は対岸に住む住民の暮らしも支えた。佐波賀地区が発祥で、江戸時代から栽培されてきた伝統野菜「佐波賀だいこん」の種を育てる採種地として古くから利用されてきた。

蛇島についての思い出を語ってくれた浅尾さん(左)と森本さん

 同地区に住む森本晃生さん(86)、浅尾惣治さん(84)によると、ほかのダイコンとの交配を防ぐため、島の南側に一反ほどの畑を整えて種を育てていたという。上佐波賀と下佐波賀の青年会が合同で担う仕事で、14~15人で耕作していた。

 森本さんは「島での種採りは中学を上がる頃から始めた。秋に植えて翌年の6月に刈り取った。一斗缶いっぱいの種が採れ、良いお金になった。そのお金で、青年会のみんなで兵庫の城崎温泉に行くのが楽しみだった」と振り返り、浅尾さんとともに顔をほころばせる。

 しかし、昭和30年代の半ばごろには島に渡ることがなくなった。皆、近くにできた大規模なガラス工場で働くようになり、栽培期間が長く身がしまって重い佐波賀だいこんが売れなくなっていたからだ。

当時のまま残っているガソリン倉庫

 浅尾さんは一昨年にあった住民見学会に参加し、約60年ぶりに蛇島に上陸した。
 
 「当時、畑の側にあった小さなクスノキが大木になっていて驚いた。島の中は木や草が生い茂っていて影も形もないが、トンネルは変わっていなかった。当時は雨宿りするだけの場所だったが、初めてトンネルの中を歩きました」

 「皆が難儀してつくったもので、このまま残した方が良い」と浅尾さん。「素晴らしい船着き場も残っており、観光船が立ち寄ったりする場所になれば」と言う。

「若い世代へ このまま残して」

「若い世代へ このまま残して」
「若い人のために、このまま残してほしい」と話す森本さん

 森本さんは「舞鶴には海軍にかかわる場所がたくさんあるが、蛇島のように昔のまま残っている場所はほかにない。当時を知らない若い人のために、このまま残せるようなら残してほしい」と語った。

 1世紀の時を経て再び光が当たり始めた蛇島。
 貴重な遺構と地域の人々が紡いだストーリーを後世に伝える地として、今後の観光における活用にも期待したい。

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