和のこころをつなぐ vol.5 〜受け継がれる宮津祭〜

まちと文化

和のこころをつなぐ vol.5 〜受け継がれる宮津祭〜

文化観光サポーター宮津市担当の河田です。令和5年5月15日、4年ぶりに復活した宮津の祭りを取材しました。大変なこともあるけれど、やっぱり祭りは楽しい。そして、見る人も担い手も、みんなが一丸となって地域が一つになる。3年間の空白の後、みなさんが心待ちにしていた祭りの風景が宮津に戻りました。

宮津藩祭 山王祭(さんのうまつり)

宮津藩祭 山王祭(さんのうまつり)
神を神輿に移し巡幸へ送り出す神幸祭(しんこうさい)

4年ぶりに祭りの衣装をまとい、緊張気味の氏子たちは神社へ集まった。雨予報だったのだが、雲ひとつない青空。祭りを待ち望んでいた神のご加護だろうか。

午前11時、山王宮日吉神社では、本殿から降りて来られる山王神の前で神輿組が片膝をついて頭を下げる。
「ドン、ドン、ドン、ドデン ドンデン」浮太鼓の音がだんだん早くなる。

「オオォーーーーーーー」

その時、不思議な声の響きと拍手が境内を包んだ。

この声は「警蹕(けいひつ)」といわれ、本来は神職が出御(しゅつぎょ)の際に周りの人々に頭を下げて神々を迎えるよう伝えるものだ。拍手は、神社で神を拝むときに手をたたく柏手(かしわで)。いつの時代からか、山王宮では神輿の担ぎ手も行うようになったのだという。「この儀式のやり方は、日本全国を探しても他にはないのでは」と牧宮司。江戸時代、宮津城下の藩祭として武士も参加していたという山王祭は、昔からの伝統を忠実に守っている。

宮津城下の平安を祈るため、御神体をのせた神輿の巡幸がはじまる。先行する太神楽が道中を清め、続いて威儀物(いぎもの)行列、神輿、浮太鼓が神社を出発。今年は20名を超える新人が加わり、神輿組は80名、祭り全体では総勢200名が参加した。

太神楽による宮津各家のお清めは13日から始まる。

この神輿は、江戸末期の1863年に時の藩主、本庄氏より寄進された。平成16年の台風23号で保管されていた土蔵は崩壊したが、屋根裏の梁が偶然にも神輿の中心に落ちたことから、神輿の柱で重量が分散され、全壊が免れたという。「あの時は本当にもう巡幸が出来ないと覚悟して夜を明かしたが、神輿組役員とともに神の配慮、天佑を感じました」と牧宮司は当時の心境を語った。

市指定無形民俗文化財 漁師町浮太鼓

市指定無形民俗文化財 漁師町浮太鼓
漁師町浮太鼓

浮太鼓は、代々漁師町地区の漁師たちが担ってきた。彼らの日常は海にある。浮太鼓の練習を始める4月3日の拳固めでは、漁師町の大利浜で御祈祷を行う。本祭でも神社を出発した行列が石段を下り、まず最初に向かうのはこの浜だ(表紙写真参照)。天候により命の危険にさらされるため、昔から海の安全や豊漁を祈ってきた漁師ならではの儀式といえる。

巡行中に怪我のないよう役員が何度も話し合いを重ね、巡路を細部まで決めた。6年間庶務を担当している井崎さんに、心境を尋ねた。

「約1か月半前から、役員の方が公民館1階で真剣に話し合っている様子を2階で事務作業をしながら聞いていました。いろんな思いや意見をまとめてきましたが、みんな子どもたちの安全と健康を守ることを一心に考えています。この思いも、何百年前から先人たちが伝えてきた宝です」

市内を巡行する浮太鼓の主役は子どもたち。今年参加した小中学生は8名、高校生や地元を離れた大学生もこの日のために帰省した。

伝統芸能として技術が伝えられる浮太鼓は、一打ち一打ちが丁寧に響く。間のとり方やバチを宙に浮かせる芸は、子どもたちの年齢が上がるにつれて確実に上達が見える。

練り込み〜御宮入

練り込み〜御宮入
神輿の練り込み

一番の見どころは、19時ごろから始まる神輿の練り込み。

御宮入の前、神輿は見守る観衆の前を何度も何度も往復する。一日中町を巡幸した後、限界ギリギリの体力で男たちは重さ約1トンもある神輿を担ぎ、早足で練り込みを続ける。「無理はしないでほしい」と女性たちが心配しても、彼らは挑戦をやめなかった。

神をお還しする御宮入

体力が限界に近づくころ、神輿は参道石段へさしかかる。かけ声は「よぉっさ、よぉっさ」から、最後の力を振りしぼる男たちの精神を表すかのように、「よいやぁーさー」に変わった。崩れ落ちそうになりながら、右へ、左へと傾き、一段登っては止まる。「本当にお宮まで神をお還しすることができるのか?」そう疑うほど、彼らにとっては果てしない道のりだっただろう。

「あともう少し、頑張って!」

マラソンのゴールを待ち受けているかのように、見物人も心を1つにして見守る。

本能を呼び起こす体験

本能を呼び起こす体験

「(神輿組に)参加してみて、『いま生きているなぁ』と感じました。声を出し、足で地面の感触を踏みしめる。神輿を担ぐととてつもない体力を使う。人間が本能として本来持っている五感をフルに使うからではないかと思います」

祭りの数日後、今回初めて参加した筒井さんが感想を語ってくれた。

「普段は個々の人間が、神輿で一つの塊になる。自分の魂ではないような、トランス状態になりました」

見物人も担ぎ手も、神様と心が一体になる。
この瞬間は、「祭りではなく神事という言葉がふさわしい」とある参加者は言った。

24年間山王祭を経験してきた神輿組庶務の杉本さんは、この地に生きてきた人々が伝えてきた精神が、祭りの儀式を通してしっかりと受け継がれていると話す。

「この夜、今を生きる若者も、江戸時代の人々も、全く同じ体験をしている。担ぎ手、御神輿、観衆、地球も夜空も、全てが一体となったような感覚が400年の時を超えて、今もここにあります。これからもずっと、お祭りの本質を忘れることなく続いていくことを願っています」

受け継がれる祭りの心

受け継がれる祭りの心
祭りの終焉を拍手で迎える

「オオォーーーーーーー」

山王神が本殿へ還られる。神社境内のすべての明かりは消され、浮太鼓と警蹕、柏手だけが鳴り響く暗闇のなか、粛々と祭りは幕を閉じた。明かりがつくと、祭りの終焉とともに感動の拍手がわき起こる。

男たちの頬には汗と涙が入り混じっていた。
祈りは届いたのだ。神様にも、人の心にも。

年齢も職業も関係なく、神という存在を通して、祭に関わった人々が一同に理屈では説明できない感動を味わった。人の心を動かす祭りは、こうして自然と子や孫へと受け継がれていくのかもしれない。

和貴宮神社 春季例大祭

和貴宮神社 春季例大祭

西堀川通りから旧宮津城側では、和貴宮(わきのみや)神社春の例祭が行われる。

和貴宮神社はかつて「分けの宮」と呼ばれており、「海と陸を分ける」という意味もあるとされる。境内にある波越岩(なみこしいわ)の起源は、社殿建立よりはるかに古い1000年以上前といわれ、当時はここまでが海であったことを今に伝えている。
北前船が往来した江戸時代には、海上安全祈願のため船乗りや廻船業者の信仰が厚かった。

嶋谷宮司によると、氏子地域では神輿、神楽、浮太鼓を5町(宮本町、本町、万町(よろずまち)、魚屋町、新浜(しんはま))が輪番制で担当する。各地区が他の地域から技術を学んで個性を出しているため、担当地区によって毎年違った芸が見られるのが特徴だ。

婦人会の手づくり料理

婦人会の手づくり料理

江戸時代に宮津城下町の職人町として知られた宮本町は婦人会が活発だという。大神輿が出御した後、和貴宮神社の向かいにある宮本地区公民館をのぞいた。40名の女性たちが朝7時からここへ集まり、子どもの着付けや180人分の食事を手づくりで準備していた。

心のこもった揚げ物や巻寿司、デザートの手料理を各休憩所に配った。女性たちは、外で巡行する子どもと男性を裏方で一生懸命サポートしている。

子どもが活躍する浮太鼓

子どもが活躍する浮太鼓

「サッサ、ヨイヤーサー」というかけ声とともに、子どもたちが元気いっぱいに太鼓を叩く。軽快なリズムの笛に合わせ、カラフルな衣装とバチが目を引く太鼓は、とにかく躍動感があり、見ているだけで楽しくなる。

万町地区の子どもたち

万町地区は、昭和43年頃から太鼓に女子を採用した。
小学生の姉妹のお母さん(岡本さん)は、「今日までの練習や準備はしんどかったけど、町内で久しぶりに集まって楽しんでいる様子を見て嬉しいです」と話す。5年に一度の輪番が3年延びたため、前回2歳で太鼓を叩いた上の娘は、10歳になった。
「世代をまたがって交流できるのは、この日だけ。違う学年の子どもと交流したり、地域の方にやさしくしてもらっています」と男の子のお母さん(堀口さん)も笑った。

威勢のいい商人の祭り

威勢のいい商人の祭り

今年神楽を担当した新浜地区は、1842年頃から花街として栄えた。北前船で繁栄した宮津のまちで、全国から訪れた商人や船頭がお金を使い果たすほど楽しんでいった。和貴宮神社を囲む玉垣には、奉納した商人たちの名前が記されている。

祭りの賑やかさは、そんな商人たちの威勢を今に伝えているようだ。

万町には町屋が並び、宮津最盛期の名残りが感じられる。
「今も邸宅が残る今林家が昭和2年に芸屋台を寄付したとの記録があります。現在では億単位になる寄付は、当時の宮津の繁栄と財の豊かさを示しています」今年宮総代をされた増田さんが教えてくれた。

増田さんは、コロナ禍に祭りができず時間ができたため、芸屋台が所蔵される自治会館の書庫を探ってみた。すると、明治17年〜昭和47年頃までの詳細な祭りの記録が出てきたという。

「太平洋戦争の時も、全町合同で神輿を出した記録がありました。スペイン風邪で止まっていた可能性がある大正時代に抜けている以外は、祭りはこのコロナ禍まで毎年行われていました」

記録からは、先人たちが苦境下でも祭りを続けてきたことがわかる。その思いは、今の担い手も同じだ。「50年の時を経て再び明らかになった歴史の重みを、若者にも伝えていきたい」と増田さんは意気込む。

青年が力を合わせる大神輿

青年が力を合わせる大神輿

「ヨイサー!ヨイサー!」キラキラと光る大きな鈴、リズミカルな太鼓と笛の音で、神様を乗せた神輿の到来を知らせる。

担ぎ手の人数が減少するなか、宮津出身の女性のご主人や他地域からも参加者を募集し、121名が3班に分かれ、交代で神輿を担いだ。班長が先頭をリードし、「締り」と呼ばれる役職の10名が前後左右に立って班長と連携しつつ、担ぎ手の安全を確認しながら順路を進む。

宮本地区神輿の班長を担当した梅本さんは、こう振り返る。

「巡行中の着座は120回。その場所を覚えるところから始めました。新人が多かったため、負担にならないよう交代の合図をかけたり、安全を確保するために細心の注意を払いました。責任は重かったが、いざ事故もなく時間通りに巡行できたことでやりがいを感じました」

徳田さん自作の笛(名前の頭文字入り)

魚屋町で旅館業を営む徳田さんは、神輿を担いでいると、待ち受けていた観客が「涙を流しながら祈る」姿が目に入ったという。「子供の頃から参加していたお祭りに自分の子が参加した時、両親も私も嬉しく思いました」と、代々同じ経験ができる喜びを語った。地区内では、お囃子の笛を竹からつくるよう教えられた。ほど良い音色が出る太さや使いやすい形を探すのに、何年もかかった。よく聞いてみると、それぞれの笛で音色が違うのも個性があって面白い。

神輿の御宮入り(和貴宮神社提供)

途絶えていても、形が変わっても、宮津の人々は先人たちが残してきた祭りへの想いを大切にし、「次世代へつなげたい」と感じている。そして、年に一度の町内総出の行事を通じて、地域の絆がより強く確かなものになっている。
宮津祭は毎年5月13日〜15日に行われる。ぜひ実際に祭りの熱気と精神に触れ、世代を超えて受け継がれてきた宮津の伝統の魅力を知ってほしい。

宮津市のお祭り関連記事:和のこころをつなぐ vol.3 「動き始めた伝統芸能」

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