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明智光秀が築いた城下町「福知山」
福知山城天守閣の開館時間・ご来館時の注意点等、下記よりご確認下さい。
https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/soshiki/7/2014.html
福知山城は市内の小高い丘の上に建っており、天正7年(1579年)頃、丹波国を平定した戦国武将・明智光秀によって築かれた城です。明治6年(1873年)の廃城令により石垣と一部の遺構を除き大部分が取り壊されましたが、昭和61年(1986年)に、市民の瓦一枚運動などにより天守閣が復元され、現在は福知山城公園として整備。市の指定文化財となっています。 この地には善政を敷き、良君として領民に慕われた光秀の足跡が遺されています。
福知山城「御城印」が誕生!(2020年1月1日~)
近年、「御朱印」ならぬ「御城印」が城好きの方々の間でブームです。今年に入り「御城印」の特集本や特集記事が出されたり、御城印帳なるものも販売されています。そんな中福知山城にも「御城印をつくらないの?」という問合せをいただいていましたが、ようやく!完成しました。※「福智山城」の文字は古文書からとっています。
続100名城スタンプラリーに続くコレクターズアイテムとしてお手元に置いていただくとともに、ぜひ写真に撮ってSNSに投稿してください!
料金:300円
販売場所:福知山城天守閣のみ
詳しくはこちら(明智光秀が築いた城下町 福知山 まるごとまちごとフォトスポット化計画)
「明智光秀公肖像」(本徳寺所蔵)
明智光秀は美濃国(今の岐阜県)で生まれたとされ、一介の浪人から織田信長に仕えると、その卓越した才能を発揮し、織田家の中でも異例の出世をしました。1579年(天正7年)に織田信長の命を受けると丹波一帯を平定。この地にあった横山城を改築し福知山城と改名しました。税金を軽減して治水工事を行うなど善政も行い、また、生涯の正室である煕子以外は側室も置かない一途な男としても知られています。そして、織田信長の天下統一に尽力するも、あと一歩という時に突如謀反を起こし、本能寺の変にて織田信長を討ちました。
妻は妻木煕子。子には、嫡男・光慶(十五郎)、三女・玉(ガラシャ)がいます。
去る4月、NHKより2020年大河ドラマを明智光秀が主役の「麒麟(きりん)がくる」とすることが発表されました。福知山市は明智光秀ゆかりの地としてPRしており、初代城主である福知山城をはじめ様々な歴史文化が残されています。光秀の足跡が残る福知山市へぜひお出かけください。
主君・織田信長の命を受け、天正7年(1579)頃、丹波を平定した明智光秀。その丹波攻略では、波多野氏や赤井氏の激しい抵抗にあい、
苦戦を強いられました。一度は敗退した光秀ですが、二度目の攻略の際には、智略をつくし、5年にも及ぶ壮絶な戦いを経て、遂に丹波を平定しました。
その功績は、信長にも大いに称えられ「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候」と名指しで称賛されたほどでした。
困窮していた浪人時代、来客をもてなすため、熙子は自身の黒髪を売りお金に換え、光秀の面目を保ったといわれています。
その献身的な姿を松尾芭蕉は「月さびよ 光秀が妻の 咄(はな)しせむ」と詠んでいます。
多くの苦難を二人で乗り越え、夫を支え続けた熙子を光秀もまた生涯をかけて愛し続け、側室を持つことはなかったそうです。
光秀と熙子の三女・玉として生まれました。織田信長の勧めで、16歳の時に細川忠興と結婚しましたが、父・光秀が起こした「本能寺の変」によりその人生は大きく変わり、夫・忠興の手で「逆臣の娘」として丹後の味土野(みどの)現在の京丹後市弥栄町に幽閉されることになりました。
秀吉の許しで忠興のもとに戻った玉は次第にキリスト教に救いを求め、「ガラシャ」の洗礼名を受けました。その後、関ヶ原の戦いに際しては、石田三成の人質となることを拒み、家臣にその胸を貫かせ生涯を閉じました。
光秀の盟友で同じ時期に将軍家に仕え、ともに信長の配下となり、光秀は丹波を、幽斎は丹後を平定しました。ともに戦い続けた最も近しい二人でしたが、「本能寺の変」では細川家を守るため、光秀からの誘いを拒絶して出家しました。その決断は光秀の敗北を決定づけるものでした。武芸にも文化にも優れ、和歌の秘技「古今伝授」を受け継ぐほどの人物であったといわれています。
福知山城は、 天正7年(1579) ごろ、丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として新たに城を築いたのが始まりとされています。
天守閣は、 望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっています。
<福知山城(福知山城天守閣)>
開館:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休業:火(祝日の場合は次の平日)、12/28~12/31、1/4~1/6
料金:大人320円、こども(小・中学生)100円
http://www.uminokyoto.jp/spot/detail.php?sid=85
明治時代の廃城令により明治4年(1871)に廃城、3年後に取り壊された福知山城だったが、昭和59年(1984)から再建に向けての会が発足し、昭和61年(1986)に大天守が復元。福知山の歴史を後世に伝える郷土資料館として新たに開館した。
この資料館では甲冑や書状など光秀ゆかりの品を展示。敷地内の御霊神社に収められていた丹波攻めの際の書状や、光秀が信長軍の軍規を記した「明智光秀家中軍法」などは、信長の天下取りの戦渦に光秀がいかに活躍したかを伺い知れる貴重な資料だ。
福知山城天守台の石垣は、光秀が築城した当時の面影を伝えています。
一見乱雑に見える積み方は「野面積み(のづらずみ)」と呼ばれ、自然石を巧みに組み合わせたものです。
また石垣には、五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの石材が数多く使われており、これは織田信長に関わる城に共通する特徴で転用石と呼ばれています。おそらく近隣の寺院から集められたもので、その理由には諸説ありますが、この地の旧勢力の象徴であった寺院を破壊し、石垣に組み込むことで支配を示そうとしたものと考えられています。しかし、光秀は石材を集める一方でその補償として代用になる石を配ったという伝承もあり、新たな統治者に対する民衆の抵抗を和らげるべく心配りを忘れなかったことがうかがわれます。
福知山城下は由良川(ゆらがわ)と土師川(はぜがわ)が合流する地点で、たびたび氾濫を起こしていました。天正八年(1580)明智光秀は城下町を築くため、現在の福知山駅付近まで蛇行していたと推定される由良川に堤防を築いて北向きに固定し、堤防の前面には衝撃を和らげるための藪を設けたと伝わっています。
かつて蛇ヶ端(じゃがはな)御藪と呼ばれたその藪は、今では「明智藪(光秀堤)」として親しまれています。
家中軍法は光秀が定めたとされる軍団の規律や軍役の基準を記した全18条からなる軍法です。軍の管理・統制を目的としたルールは当時の織田家中にはまだ存在せず、先進的なものでした。
自身を軍団長にまで引き上げた信長への感謝と敬意が込められたものでしたが、制定の一年後、本能寺(京都市)で信長を討つことになります。
西国への要衝となる福知山を発展させるため、光秀は地子銭(宅地税)を免除しました。また楽市楽座を設けるなど経済発展に力を入れました。現在に至る福知山の発展の基礎を築いた人物として、光秀は今でも福知山市民に慕われています。
全国から光秀ファンが集うケーキ店「明智茶屋」。人気No1の商品は開業当初から販売されている「光秀の愛したプリン」です。そのほかにも丹波黒豆を使った「秀でて光るマドレーヌ」や光秀の家紋の焼印が押された「桔梗ロール」など光秀に関係するスイーツが並んでいます。店づくりや商品づくりのコンセプトは「戦国×カワイイ」なので歴史探索に来福された女子のお土産に選ばれています。駅から西へ徒歩五分。駐車場あり。詳しくはホームページ
https://akechichaya.com/)まで
明智光秀グッズや福知山土産のご購入は福知山観光案内所で!
JR福知山駅北口の横にあります。是非お立ち寄りください。
営業時間:9:00~17:00まで(年末年始は除く)
お車でお越しの方は、福知山駅北口駐車場(駐車1時間無料)をご利用ください。
【福知山観光案内所
https://dokkoise.com/about/
戦国武将「明智光秀」が築いた城下町「福知山市」。京都府最大の港「舞鶴港」のある舞鶴市とは隣接しており、新鮮な魚介類の流通は勿論、農産物の生産も盛んなことからお料理のバリエーションが豊富でクオリティも非常高いです。また福知山市は「肉の町」、「スイーツの町」としても知られています。
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